2014/09/17

ベルイマンを読む 人間の精神の冬を視つめる人




【作品データ】
題名:ベルイマンを読む 人間の精神の冬を視つめる人
文献: フィルムアート社
作者:三木宮彦
分類:映画関連本
発刊:1986年

スウェーデン映画がいかなる歴史を辿りつつあったのか、という事実は、今から知ろうとしても無理がある。ウプサラというストックホルムの北に位置する都市の首都との関係や風習は一般的な知識といってもほとんど何も知らないにひとしい。ことさら、ベルイマンの家系がプロテスタントで、父親は僧職を奉じていたいた過去も皆無だ。ベルイマン自身の幼少時代、青少年交流計画でドイツに短期滞在し、大音量でワーグナーを聞いてナチかぶれた事実は当時スウェーデンの不満でシニカルな青年にとってはむしろ自然な成り行きであったこともスウェーデンの国内状況を知らないからピンとこないのだ。そういうなかでベルイマンの映画制作状況と実生活の環境をパズルのように照らし合わせていく。
「第七の封印」の自己顕示欲はいったいどこから生まれついたのか。以前のみずみずしさは、制作会社の意向に沿った作品でしかないのか。それならば、なぜ「第七の封印」以前の作品はこんなにも映画的なんだろうか!ひとりの監督の解説本として、たいへん完成された一冊。

 ベルイマンを読む―人間の精神の冬を視つめる人 (ブック・シネマテーク 8)

2014/09/06

夏の遊び / イングマール・ベルイマン



【作品データ】
題名:夏の遊び
原題:SOMMARLEK
公開:1951年スウェーデン
監督:イングマール・ベルイマン
制作:アラン・エーケルンド
撮影:グンナール・フィッシェル
音楽:エリック・ノードグレーン
出演:マイ・ブリット・ニルソン/ビルイェル・マルムステーン/アリフ・シェリーン

【評】
ベルイマンの作品をすべて見たわけではないが、「夏の遊び」をベルイマンの中でいちばん好きだと公言することは、早まった考えでもなさそう。みずみずしさがスクリーンかたはじけてきそうな、夏の思い出。そこには以降の作品群に見える思想が感じられず、ただ映画というものを撮ったと言わんばかりに思える。とりわけ、デートをすっぽかしてバレエの練習をしている彼女のもとへ、ドアをドンドン叩いて恋人の青年が犬といっしょに入ってくるシーンが素晴らしい。カメラは踊る足元のつま先立ちを手前で捉え、焦点は踊る足の向こう側の青年と犬が座っている。ここだけを何度も何度も繰り返し見たい。飽きるまでみたい。


2014/09/04

夏の夜は三たび微笑む / イングマール・ベルイマン




【作品データ】
題名:夏の夜は三たび微笑む
原題:SOMMARNATTENS LEENDE
公開:1955年スウェーデン
監督:イングマール・ベルイマン
出演:グンナール・ビョルンストランド/ウーラ・ヤコブソン/エヴァ・ダールベック/ヤール・キューレ

【評】
ベルイマンはずっとおかしな感じがしていた。「第七の封印」「処女の泉」は彼の代表作と知られ、途方もない命題にしばし観客として狼狽してしまうほど、その意志が強く惹いている。それらの魅力も確かに存在する事実は抗えないし、引き込まれるということが、なんだか変なものを見ている違和感として、表現にいたす過程も首をふるまい。
ベルイマン唯一の喜劇とされている「夏の夜は三たび微笑む」を見て、私はある確信を得た。この作品、ならびに「夏の遊び」はベルイマン的違和感の魅力を一切与えず、純粋なる映画として存在している、さらに「映画」を撮るという初歩的な姿勢が叶った作品に違いない。
喜劇でもなんでもよいのだけれど、そもそも「映画」を見る人は「映画」が見たいのだ。内容はどうだっていい、それが「映画」でさえあれば。そういうことなのだという確信がそれにあたる。
たとえば古びた館の寝室で下男が来客の女中に、そのボタンを押してごらんというとき。
女中は半信半疑でボタンを押すと、寝室のからくりが解かれ、しずかに隣室の王女のベッドだけがするすると現れ、さらにはベッドが低位置に着いたとき、レースのカーテンが引かれ、天使の像がラッパを吹く、馬鹿みたいなこのからくりをカメラが順々に捉える。最後に女中の悪どい微笑みが現れる。これは素敵なシーンのひとつである。ここに於けるベルイマンの心は「第七の封印」「処女の泉」を含む以降の作品とは異なる「映画」としての心がある事実を見つけることができた。
@オーディトリウム渋谷2014/07/30

2014/09/01

トスカの接吻 / ダニエル・シュミット



【作品データ】
題名:トスカの接吻
原題:Il Bacio di Tosca
公開:1984年スイス
監督:ダニエル・シュミット
撮影:レナート・ベルタ
出演:ジョヴァンニ・プリゲッドゥ/サラ・スクデーリ

【評】
かのジュゼッペ・ヴェルディが印税をもとに建立された“ヴェルディの家”=音楽家たちのための養老ホームの様子を撮影したドキュメンタリーである。
かつてきらめく華を抱えた音楽家たちは引退後、ヴェルディの家でどのような生活をしているのか?施設を運営する人はインタビューで「二年前からヴェルディの著作権が切れ、施設の運営が厳しくなっています。しかし彼等(老人たち)は、かつて芸能人で、芸術家で、スターでありました。そして、ほとんどの者(老人たち)がその栄光を捨てきれないのです。だから、少しでも彼等に“張りのある生活”を与えたいんです」と語った。カメラに向かって答える施設の者の背後をよたよたと老婆が近づいてくる。微かなメロディーを口ずさんで。
やはり、切り離せないのがレナート・ベルタのカメラである。レナート・ベルタもシュミットと同様にスイス人だが、マイナー監督のシュミットに反して超売れっ子撮影監督だ。ストローブ=ユイレ、ジャック・リヴェット、ルイ・マル、ゴダールらなどの作品をばんばん撮っているベテランは、カメラが動かない?いや、ごく僅かに動いている!という官能的な回し方が特徴的である。 たとえば、齢をとって、口のまわりの筋肉がどうしても緩んでしまうため、何を言っているわけでもないのに、むにゃむにゃと口が動いてしまう元音楽家の老人をカメラでどう撮るのか?ということだ。みずみずしさと弾力が失われた肉体、死を暗示させるような虚ろな瞳、かさついた皮膚、これらをどう撮るのか? あるいは今の時代では、皮膚のたるみを映し出すことが、人生の重みが表現されている、などと言われうるかも知れない。しかし本質的には、写実主義ぶった暴力ということが道徳的観念から呼び起こされまいか。彼らにシュミットの繊細さは決してわかるまい。レナート・ベルタの思いやりに気づくこともできぬのだ。
老人たちが談話室に集まり、みんなで「乾杯の歌」をうたうシーンでは、元音楽家の老人(ジョヴァンニ・プリゲドゥ)が指揮し、元ピアニストの老婆が伴奏をはじめ、主要メロディーを弾いて歌がはじまるところになっても誰もうたわない。みんな忘れてしまっている。愛に溢れた映画だ。