2014/03/26

怪しみ/高橋たか子


【作品データ】
題名:怪しみ
文献: 新潮社
作者:高橋たか子(1932-2013)
分類:日本文学
発刊:2013 年オリジナルは1979年〜1980年

【評】
はじめはアラン・ロブ=グリエの「迷路のなかで」(講談社文芸文庫)の解説で高橋たか子の虚構のなかの「現実」と現実における「幻覚」を交差させている文体を知り、はじめて読んだ短編集が「怪しみ」である
それは、やはりヌーヴォ・ロマンの風を吹かせる、奇妙な物語と浮遊しているような文体が特徴的で、のんびり寝そべって読書を愉しもうと本を開いたらさいご、その超現実世界(敢えてシュールとは言うまい)に引き込まれて行くのだ

「招き」は右眼の手術を受けるべく入院した60代の女が、その手術まで病院を徘徊しながら考え事をしてゆく話なのだが、「与えてくださったものをお返ししてゆくのです」という言葉が頭から離れずに自分の右眼が無くなっても「失う」のではなく「お返し」する、そう考えればいいのだと思ったりする
ただそれだけのストーリに女の内的思考が、とめどなく押し寄せてくる
それに抗う気力と意志もなく、ただ芒としながら考え任せて、思考の戯れともいえる文学的体験を読者に与えてくれるのは、どの短編でも共通していえることである


2014/03/24

ペトラ・フォン・カントの苦い涙/ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー





【作品データ】
題名:ペトラ・フォン・カントの苦い涙
原題:Die bitteren Tränen der Petra Von Kant,
公開:1972年ドイツ
監督:ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー
制作:ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー
脚本:ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー
音楽:ザ・プラターズ
撮影:ミヒャエル・バルハウス
マーギット・カーステンゼン/ハンナ・シグラ/カトリン・シャーケ/エファ・マッテス/ギーゼラ・ファッケルディ/イルム・ヘルマン


【評】
ザ・プラターズの“Great Pretender”がこんなに耽美的に聴こえるなんて知らなかった
これだけでも、新しい体験であるのに、いかにもファスビンダーらしいこの映画は監督自身の戯曲「ペトラ・フォン・カント」の映像化作品であるが、その出演者の顔ぶれはファスビンダー信者には、かなり嬉しい思いをさせてくれる

それどころか作品自体の登場人物の関係性は、私たち一般人には解せないところが少なくない
女性の自立=政治的(経済的)自覚、つまりはフェミニストをもった設定の上に、レズビアンという構図、さらに支配する者と、支配されるマゾヒズム
自立して個々に備えられた人間性を解放しているかのようにも見える彼女たちは、それぞれに普遍的な障害を無自覚に持ち、それらの共通項すら知ることができずにいるのだ
これらの主題を取り巻く、“Great Pretender”のセンスの良さに惚れ惚れしてしまった


2014/03/22

老残/死に近く 川崎長太郎老境小説集





【作品データ】
題名:老残/死に近く 川崎長太郎老境小説集
文献: 講談社文芸文庫
作者:川崎長太郎(1901-1985)
分類:日本文学
発刊:2013 年オリジナルは1961年〜1983年

【評】
ほとんど似たような話を繰り返すことに、悪びれない潔さが感じられる
だいたい、人がある命題について考え、とやかく言うにしても、「書く」もの「思う」ことは、すべて同じ結論に帰結するのが常である
川崎長太郎の洗練された文体のせいだと思うが、それらの老境小品がまるですべてが正しいと錯覚させられる

P子といよいよ結婚する時期の、揺れ動く心情を持って観察するKの眼差しとして、「彼等の結婚を、既成の事実として、寸分疑っていないような女の、なかばはしゃぎ気味にもなる弾み方」と描写することで、その技量は裏付けられている
P子への愛の有無に関わらず、達観して見つめることができるのは何を隠そう私が老人だからである、とでもいうような感じが伺える

この作品のなかで異色を放つ“海浜病院にて”も面白い
じぶんがひっくり返ってしまって入院し、リハビリをしながら自身の老いた肉体を観察しており、隣のベッドに見るからにヤクザという男が入院してきて、何やら色んな人が出入りし、封筒を受け取ったりしているのだが、そのヤクザに煙草を奨められる場面がよい 「Kさん、あんたもちっとも煙草やらないな」「あれに堅く止められているんでね」そして涙誘うのが、ヤクザは「奥さんに内緒で喫ったらよかろう」と「わかば」をKのベッドへ置いてゆく
ああ、なんだかこうして感想を書いているうちに再読したくなった

2014/01/30

アガタ/デュラス、声/コクトー



【作品データ】
題名:アガタ / 声
文献: 光文社古典新訳文庫
作者:マルグリット・デュラス(1914-1996) ジャン・コクトー(1889-1963)
訳;渡辺守章
分類:フランス文学
発刊:2010年オリジナルは「アガタ」1980年、「声」1929年

【評】
「アガタ」
互いに近親相姦となることを自覚している愛といかにして向かい合うのか、という主題を抱えた「アガタ」の美しいイマージュは、すでにデュラス自身が監督した映画で(私の愛する女優ビュル・オジェがデュラスと同居していた素人ヤン・アンドレアと出演している)、ブラームスのワルツと呼び起こす
もちろん、これは戯曲であるので、映画でも台詞は「朗読」される
ムージルの未完「特性の無い男」に感銘を受けたデュラスは、作中、妹アガタの恋人に「ディオティーマ」と呼ばせることで、その目配せを果たしている
たとえば「ディオティーマ」はプラトンの「饗宴」で女司祭として登場し、ソクラテスは「ディオティーマによって愛する者の愛する術を教えられた」という
それを潜在的にをアガタに委ね、エロス的純愛を引き継がせることができたのである
さらに兄は「突然、美しくなったアガタ」と、妹への美しき情景を、そして「間仕切りの音が筒抜けの部屋」で起きていたこと、それを妹へ伝える、やりようのない想い
一方、「がらんとしたラヴ・ホテルのなかで兄の弾くブラームスのワルツ」を聴き、鏡に映した自分自身の身体の深層に感じた性愛を確か体験する
それらを「過去」のことを現在起きているかのごとく「語る」ことで、「再び、語られる」ことの必然性を誘う
また、兄と妹の持つ「追憶」に対する向かい方が、異なることを知らずと「分かってしまう」会話は情景がことさら明確に浮き出てくることを抗えない


「声」
男に別れ話を切り出された女は、睡眠薬自殺にも失敗して最後の「愛」の電話の受話器を通して、男に語り続ける、対話である独白を取った形式である
今や先端的でもなんでもないコミュニケーションの道具としての電話と、情報伝達装置として普及された器械が個人と個人の会話の道具となったころを思い浮かべる必要が有る
キャッチホンや留守番電話のない電話、コードは長く部屋中を歩き回ることが可能で、電話を掛けるには交換手をとおし、混線は免れない、そういう電話である
そこで、いかにも電話のコードの先にいるはずの男=「不在の男」との対話を試みる
(不在の男をオーケストラ・パートでプーランクが作曲している)
不在=沈黙、これが実際に起きている現実だが、女はあくまでも執拗に「不在の男」に愛を語り続けるので、虚構がしだいに溝を深める